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平成26年 4月21日

実割梅(みわりうめ)について

東照宮唐門下に梅樹が植えられています。

紅梅「八房梅」...小梅が房となって実ることからその名前が付いています。
白梅「実割梅」...熟すと実が割れることからその名前が付いています。

今回はこの実割梅(みわりうめ)についてのお話です。

この実割梅の前には石碑が建てられています。

實割梅の記
駿河の城の御庭に梅樹あり 咲出る花の色香のみならず
むすべる實も世にたぐひなく 核のおのつから恵みわるゝより
其名をも實割梅といえり 古は昔東照御神の御手つから
移植給ひしといふめる 明治の御事ありしより 咲出る色香は
むかしにかはらずいとめでたけれど 後々は其故よし傳ふる人の
まれになり行かむを 国人久能の宮祠竹齋出島の翁 深くなげき
遠くおもひ 御社の御前に移うえしぞ 花志るあらば
いかにうれしとおもふらめ はた御神も 其まめしき心ばえを
愛玉ふらし こゝに詣づる人よ 此花を見 この色をも香をも
袖にとめつ 古をしのび今をおもひて奉る ぬさとなしなば
心の塵もすがすがしふなりて 神の御めぐみもいやちこならむと
思ふになむ
明治九年 勝 安芳謹記す 表額 山岡高歩拝書

口語訳(意訳)は以下の通りです。

【駿府城に梅の木がありました。花の色や香りは大変素晴らしく、また結ぶ実も大変珍しいもので、熟すと種が二つに割れるので、実割梅と呼ばれていました。この木は、昔徳川家康公がご自分で植えたものと言われています。明治維新を迎えても梅の色や香りは昔と変わらず大変素晴らしいものでしたが、この梅の由来を伝える人が少なくなりそうでした。このことを久能山東照宮の宮祠(現在の宮司職)であった出島竹齋翁は深く心配し、何か出来ないかと思いを巡らして、駿府城から東照宮の境内に移植しました。花がこれを知れば、どんなに嬉しく思うことでしょう。また、東照宮に鎮まる徳川家康公も、出島竹齋の真面目な志をどんなに感心されたことでしょう。東照宮にお参りする人は、この花を見て、色や香りを楽しんで、徳川家康公がいらっしゃった昔の時代を偲び、今の時代に思いを巡らしましょう。この梅の由来を胸にお参りすれば、心もすがすがしくなり、徳川家康公も益々お恵みを与えて下さることと思います。】

実割梅は徳川家康公が駿府城で、自ら育てていたものでした。文中には由来を伝えていく人が少なくなる事を危惧して、とあります。江戸時代、駿府城ではこの実割梅から梅干を漬け、東照宮に納める仕来りだったそうです。しかし、奉納は明治維新後に行われなくなってしまい、当時の第一祠官(現在の宮司職)であった出島竹齋は梅樹そのものの存続を憂慮し、徳川慶喜公と協議の上、駿府城から東照宮への植え替えを敢行しました。勝海舟は出島竹齋翁の忠節に感銘を受け、山岡鉄舟と共同で石碑を立てたと伝わっています。

現在でも、御祭神がお喜びになるよう、また出島竹齋翁の忠節に習って梅樹の管理および梅干奉製を執り行っております。

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